T-1aa 国東半島峯道ロングトレイル T-1 を歩く 2015/1/31


7時20分、豊後高田市高山寺駐車場に集合。ここからの眺望は国東半島の北から東にかけての山々が一望出来る。
昨夜の冷え込みで、外気温は2℃と冷たい。
今日の参加者8名が車2台でT-1スタート地点の熊野磨崖仏駐車場へ向かう。

T-1区間は、下の画像の右端「熊野磨崖仏から始まり、画像左端上の高山寺までのおおよそ14km。結構上り下りのある、歩きが楽しめる区間。
熊野磨崖仏がスタートとしているが、下の駐車場がスタートと考えた方が正しいかも知れませんね。

車を下の駐車場に置いて、熊野磨崖仏の拝観料を払って登りはじめる。ここを登らねば、スタートの熊野磨崖仏に到着しない。 駐車場到着は8:53分  スタート

熊野磨崖仏


小さなアーチ橋構造の無明橋を渡ると「三社大権現」と刻まれた額束の鳥居が立っている。参拝者の迷いや邪気を払うとされる水の流れと無明橋が参道に設けられる。
三社とは、熊野三所権現の本宮・新宮・那智の本地仏とされた、阿弥陀如来・観音菩薩・薬師如来の三尊を示すと考える。大権現は、本地垂迹説(ほんじすいじゃくせつ)の、日本古来よりの神道と仏教を両立する為の神仏習合の行為あるいは理論で、日本の八百万の神々は、仏が化身して日本の地に現れた権現(ごんげん)であるとする考え。明治元年の廃仏毀釈で、この権現の表記を禁じられたが、国東半島では、多くの鳥居に権現表記が残っている。
鳥居の島木と柱の接点部に丸い輪っかの台輪と呼ばれる部品がある。国東半島では、一般的にこれを宇佐神宮鳥居の特徴で有り、神仏習合の印と言う。さて、これが本当か?昔の鳥居は木材で出来ていた。木は、切り口からの水のしみこみで腐ることから、この部分に銅や銅合金のキャップが被せられていた。鳥居が石で作られる様になったが、このキャップをこのような形で残したとされる説もある。宇佐鳥居説に関しては、歴史学者の間では否定的な意見が多い。

鳥居の笠木の上に沢山乗せられた小石の意味は? 鳥居の上に石を投げて乗ると「願いが叶う」といわれることによる。投げる時に危険であり、落下も危険性もあるので慎むべき行為。

さて、なんで鳥居? 天照大神(あまてらすおおみかみ)を天岩戸から誘い出すために鳴かせた、常世の長鳴鳥(とこよのながなきどり=鶏)に因み、神前に鶏の止まり木を置いたことが起源であるとする説が有力とされる。要は、鶏をとまらせ、神様に出てきていただく為の仕掛けなんですね。
鬼の築いた石段

紀州熊野から田染にお移りになった権現さまは霊験あらたかで、近郷の人々はお参りするようになってから家は栄え、健康になりよく肥えていた。その時、何処からか一匹の鬼がやって来て住みついた。鬼はこのよく肥えた人間の肉が食べたくてしかたないが権現さまが恐しくてできなかった。然しどうしても食べたくなってある日、権現さまにお願いしたら、「日が暮れてから翌朝鶏が鳴くまでの間に下の鳥居の処から神殿の前まで百段の石段を造れ、そしたらお前の願いを許してやる。然しできなかったらお前を食い殺すぞ」と云われた。権現さまは一夜で築くことはできまいと思って無理難題を申しつけられたのだが鬼は人間が食べたい一心で西叡山に夕日が落ちて暗くなると山から石を探して運び石段を築きはじめた。真夜中頃になると神殿の近くで鬼が石を運んで築く音が聞えるので権現さまは不審に思い神殿の扉を開いて石段を数えてみるともう九十九段を築いて、下の方から鬼が最後の百段目の石をかついで登って来る。権現さまはこれは大変、かわいい里の人間が食われてしまう、何んとかしなければとお考えになり声高らかに、コケコウー口と鶏の声をまねられたら、これを聞いた鬼はあわてて「夜明けの鶏が鳴いた、もう夜明けか、わしはこのままでは権現さまに食われてしまう、逃げよう」と最後の石をかついだまま夢中で山の中を走り、一里半(六キロ)ほど走ってやっと平地に出たが息がきれて苦しいので、かついだ石を放ったら石が立ったまま倒れないのでそこを立石(速見郡山香町)と呼ぶようになった。
鬼はそのまま倒れて息が絶えた。これを聞いた里人たちはこれで安心して日暮しが出来る。
これも権現さまのおかげと、岩に彫んだ大日さまのお加護であると朝夕感謝するようになった。
鬼が一夜で築いた石段は、人に優しい。己の一歩にフィットする石を見つけながらゆっくり登れば、いつの間にか岩壁の仏の足下に登りつく。今時の階段や石段は、作る側が作りやすく作るために、登る人には優しくはない。それに比べて、この石段は人に優しい。人に優しい石段を登りついて見上げると優しい顔の不動明王と如来様が迎えてくれる。 9:09 下の駐車場から16分。

【熊野磨崖仏の特色】

昭和二十年二月十五日、国指定史跡に指定され、昭和三十九年五月二十一日、国指定重要文化財に指定された。

国東六郷満山の拠点の一つであった胎蔵寺から山道を約三百米程登ると、鬼が一夜で築いたと伝えられる自然石の乱積石段にかかり、この石段を登ると左方の巨岩壁に刻まれた日本一雄大な石仏は大日如来と不動明王であり、これらの石仏群が熊野磨崖仏である。

伝説では養老二年(七一八年)宇佐八幡の化身仁聞菩薩がつくられたと云われているが、この石仏の造立年代推定資料となる「六郷山諸勤行等注進目録」や「華項要略」等の安貞二年(1228年)の項に「大日石屋」「不動石屋」のことが記されているので、鎌倉初期には大日、不動両像の存在が明確である。また、胎蔵寺が記録にあらわれるのは仁安三年(1168年)の「六郷山二十八本寺目録」であるので、磨崖仏の造立は藤原末期と推定されている。

熊野磨崖仏管理委員会発行パンフレット転記(特色)



磨崖不動明王

不動明王、梵名アチャラ・ナータは、密教特有の尊格である明王の一尊。また、五大明王の中心となる明王。

五大明王とは、
 中央 - 不動明王(ふどうみょうおう)
 東方 - 降三世明王(ごうざんぜみょうおう)
 南方 - 軍荼利明王(ぐんだりみょうおう)
 西方 - 大威徳明王(だいいとくみょうおう)
 北方 - 金剛夜叉明王(こんごうやしゃみょうおう)、または、烏枢沙摩明王(うすさまみょうおう)

密教の根本尊である大日如来の化身とされ、憤怒の表情は、その内証(内心の決意)を表現したものとされる。。

憤怒の形相で、八大童子のうちの矜羯羅童子(こんがらどうじ)と制吒(多)迦童子(せいたかどうじ)を両脇に従えた三尊の形式で彫像に表されることが多い。 不動明王右脇の二つの像が二童子か?


磨崖如来像

大日如来(だいにちにょらい)、梵名 マハー・ヴァイローチャナ。虚空にあまねく存在するという真言密教の教主。宇宙の実相を仏格化した根本仏であり,一切の現実経験世界の現象はこの如来そのものであるといわれる。さらに三世(現在・過去・未来)にわたって常に説法していると説かれる。 万物の慈母とされる。


大日如来像上部にある曼荼羅(まんだら)彫刻は、熊野修験と六郷山山岳信仰が習合したものともいわれている。
サンスクリット語 maṇḍala の音写。 円板、円輪の事。 壇、輪円具足などと訳す。
密教の修法のため、本尊を中心として、本尊と関連のある諸尊や守護などを方形や円形の区画の中に定められた方式に従って配置した図をいう。


熊野神社    9:15  スタートから22分
屋根に雪が残っています。